何ものにも代え難いもの

一ヶ月くらいかな?
ブログを放置してました(笑)

8月は、大好きだった義父の初盆に
意識をフォーカスしていたこともあり
ブログは書かないままになってました。

昨年の中頃に

肝臓がん末期とわかり

昨年末の仕事納めが終わってから

寝込むこととなりあっという間に

この世を旅立っていきました。

 

特攻隊に入隊となり

知覧にいたこともある義父は

そのことをだんなさんを始め

家族に話すこともなかったそうです。

 

孫は、我が家の5人しか

いないこともあってか

とてもかわいがってくれ

誕生日にはお祝いを必ず

贈ってくれていました。

 

大分の季節の果物も

こまめに送ってくれて

我が家からの電話も

心待ちにしてくれる様子が

いつも感じ取られていました。

 

そんな義父だったので

肝臓がん末期とわかった時

子どもたちは強いショックを受けても

自分たちができることをと

考え動いてくれたなあと

今振り返ると思います。

 

私の父も大分出身なのですが

今回、大分の里の初盆では

『盛り籠』というものが

送られると知りました。

 

ずらっと並んだ『盛り籠』に

とても華やかさを感じながら

葬式や49日・お盆等は

見送る側の氣持ちの整理にも

繋がっているなあと思いました。

 

今回、長男の嫁という立場を

意識して動くことをしてみて

(といっても、世間一般でいわれる

 できた嫁とは程遠いですw)

「いてくれて助かった。」

「氣配りができている。」

等の言葉を親戚から伝えられ

お盆の最中には

義母から伝えられることがあり

ありがたさをしみじみと感じていました。

 

それは

私が私自身を認め

受け入れてきたことが

それらのありがたい言葉を

素直に受け取ることになったとも。

 

自分のことを無意識に

卑下していることに

氣づくための流れに

ずっと乗ってきていたなあと

振り返ると思うのです。

 

自分自身を

無意識に卑下していると

いくら周りが自分を認めてくれていても

卑下される自分が当たり前で

そうでない自分は違うと

無意識で判断して

受け取っているようで

実は受け取っていない

ということをしているのです。

 

できない

足りない

 

そんな自分が当たり前だと

自分に24時間どころか

生きている間言い聞かせて

 

できない

足りない

自分を責め続ける。

 

他人だったら

離れることもできますが

自分自身だから

ずっとそれをしていることになります。

 

そこに氣づいてから

切り替えをし始めたのが

10年ほど前だったでしょうか。

 

長年つけてきた癖。

 

それを一氣になくすことを

望んでツールを探したり

してきましたが・・・

一氣にはなくなることはなく。

 

それどころか

できない

足りない

と責めている自分を責めることに

繋がっていたり。

 

できない

足りない

にフォーカスすることになって

 

できない

足りない

私を実感する出来事が

引き寄せられ続けたり。

 

いろいろと体験しました。

 

その体験していく過程が

私にとっては

とてもありがたいギフトだったと

今は至っています。

 

時間をかけて

得ていくもののありがたさは

何ものにも代え難い。

 

義父母との関係性も
親戚の人との関係性も
もろもろに・・・

時間をかけて

培われてきたものであり

私自身の人間性
時間をかけて
培われてきたものであり・・・

 

一氣に手に入れようとしても

手に入れることができないもの。

 

 

人として生まれて

得たかったのものの一つに

ここがあるなあと

しみじみ思うのです。

 

 

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