喜怒哀楽とどろどろしたもの

昨日は急遽友人と電話談議。
 
マヤ暦での赤い龍の13日間での最終日に
この話になるのは納得という内容。
 
自分の喜怒哀楽に素直になり
それらがあることを
認め赦し受け入れていくことで
世界が変わっていく。
 
人間だもの
喜怒哀楽があって当たり前。
 
嫉妬も妬み等の
どろどろしたものがあって
当たり前。
 
それはいけないこととして
抑え込んで
無いものにしようとすると
何重にも抑え込まれたものが
別の形となって表れる。
 
その形は様々であり
あるときは人間関係として
あるときは自然の現象として
表れる。
 
7年ほど前だったか
夜中に人の念の集合体が
訪れてきたことと思い出し
そのことを話す流れにもなり。
 
抑え込まれた人の感情。
認めまいとされた感情。
 
ある時
魂や見えない存在が
それらが在るということを
認めるように促すための
出来事をもたらしてくる時期が
やってくる。
 
認めたくないものを認めることは
とても勇氣がいることでもあるし
抵抗も出てくる。
 
そうして抗い続けていると
様々な方面から仕掛けられてくる。
 
それらは始め
はっきりと自覚できるような
状態で仕掛けられてくることは
少ない。
 
言葉として表されても
本人が受け取れる状態になっていなければ
別物に変換されて受け取られたり
大きなお世話だと思われたりすることが
ほとんどなのかもしれない。
 
上手くいかないことが続く。
 
表面上は裕福に見えるが
内側は満たされない。
 
何か違和感を感じ続ける。
 
そんなふうになんとなく感じて
その奥にある真意に氣付きにくい。
 
なんとなく感じていることを
不安に思い
その不安を避けようとして
すぐに安心できるような
別の何かで代用すようとしたり。
 
迷子になったような感覚で
代用できるものを
外に求めて一時の安心を得てみたり。
 
何とかしようと
外に求め続けても
その要因は内側にあるので
一瞬はこれだ!と思うものが見つかっても
その後は振り出しに戻るような状態となる。
 
その状態を繰り返すことで
得られるものもあるので
それらは善い悪いの判断をするものでは
ないとは思う。
 
ただ
そこに氣づき
次のステップに進む時期となれば
執拗に似たようなことが起こる。
 
そして
自覚できるようにと
最終手段的な痛みを伴う出来事が
起こったりもする。
 
それを
私は悪くない!
関わった人が悪い!
今ある状況や環境が悪い!
 
と外に要因があると決め付けたり
人のせいにし続けたりする人もいる。
 
そんな私ではいけない!と
表面上をどうにかしようとする人もいる。
 
そこから氣づく人もいる。
 
どれが善い悪いではないけれど
魂が、本来どのような生き方を
望んで生まれてきたのかを
知っていくことで
生き方が楽になってくると
過去の私を振り返って思うのです。
 
喜怒哀楽の中に
そのキーワードが隠されていて
そこを素直に認めて受け入れることを
繰り返し続けていくと
怒・哀を抑え込み無くそうとした時よりも
感じなくなったことを実感しています。
それと同時に、どろどろしたものも減っていきました。
 
どろどろと感じていたものは
自分に対してあってはいけないと
認めずにいたものが
外側に向かって発生していたもので
本当は自分でどろどろにしていたと
氣づくことにも繋がっていました。
 

 

 

 

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